9/08/2017

日本の城探訪 ~ 安土城 ~

日本に里帰りをした際に安土城址を訪れて来ました。安土城と言えば信長の居城として築城された事は有名です。
しかし天主の完成から僅か3年で火災で消失してしまい、その姿が想像の域を超えない城でもあります。
今回はそんな安土城がどのような城だったのか見に行ってみました

安土城の歴史(年月は西暦)
1576年1月 築城開始
1579年5月 天主完成
1582年6月 本能寺の変により織田信長が自害
1582年7月 安土城天主、信長の死から13日後に火災で消失
1585年 廃城

通常は『天守(天守閣)』と呼びますが、安土城だけは『天主』の漢字が使われました。
信長自身が天主になりたいとの思いからそうなっていると言われています。

廃城後はまともに調査、整備もされた事がありませんでした。江戸期には少し整備されたそうですが、1940年(昭和15年)から翌年に掛けて、廃城後350年以上も経て初めて本格的な調査、整備が行われました。その後も継続的に整備は行われてきましたが、最近では平成元年より20年計画で大規模に発掘調査、整備が行われました。それによりまた多くの建物跡などが発見されました。

今回訪れた際には復元作業も一通り終了しており、見学できる場所も多く、時間的にも思った以上にたっぷり楽しめました。
戦国時代のドラマや映画で登場することも多い信長ですが、ここ安土城を歩くだけでも信長の考え方がどのようなものだったのか、実際に見ることも出来ますので面白いです。

写真でご案内いたしますので御覧ください。
入り口で入場券を購入。入り口には摠見寺と書かれて居ます

摠見寺は築城の際に城郭内に信長が建立した寺です。
廃城後も江戸時代を通じて代々織田家の一族が中心に住職として寺を守り続けてきました。
大手道

大手道は道幅8m、長さは直線で180mあり、ふもとの入口から真っすぐ上へとのびています。
この大手道は廃城後に土砂に埋もれ、また摠見寺がこの道を遮る様に高石垣を築き領地を広げたため、
道の存在自体が完全に判らないようになっていました。
この大手道は平成元年からの発掘調査に際して摠見寺の石垣を取り除いた事で発見され、復元されたものです。
大手道の石段にある石仏

石段には石仏であった石も多数見つかっています。何を意図して石仏を石段に使ったのか、様々な見解はありますが真相は分かりません。
伝前田利家邸跡

信長の家臣の一人、前田利家の家があったとされる場所です。
伝羽柴秀吉邸跡

こちらも信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉の家があったとされる場所。
石垣だけではなく礎石も見つかっているため、建物の間取りもある程度分かるようになっています。
本当に前田利家や羽柴秀吉がここに住んでいたという言い伝えはあるが、記録は残っていません。
大手道の続き

180mの石段を登りきると左に90度折れ、その後は左右に蛇行しながら上へと続きます。
思った以上にキツイ山登りになりました。
石段の高さや間隔も防御の為に一定ではなく歩きにくいです。
尾根道

この道は古地図などを元に、昭和15年に推測により設けられた石段です。
黒金門跡

この石垣も昭和15年に復元されたものです。
ここには櫓門があり、外敵の侵入を防いでいました。
織田信長公御廟所

二の丸跡には信長公の御廟所があります。信長の死の翌年、1583年に羽柴秀吉により建立され、太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたそうです。
天守台西側の側面

二の丸側から天守台が見えますが、こちらの面はかなりの土砂と雑草に埋もれています。
石垣も相当崩壊しているようで原型がどんな形だったか分かりません。
本丸跡

本丸跡の石垣は火災で割れたと思われる石が沢山見られます。
ここには本丸御殿があり、礎石だけが残っています。
この礎石の配置と規模からして、秀吉が京都に1591年に造営した内裏清涼殿によく似ていると言われています。
現在の京都御所にある清涼殿(1855年再建)

信長は御殿内に皇居の間を設け、天皇を迎える用意をしていたそうですが実現しませんでした。
信長自身は天主に住んだ為、御殿の上にある天主から天皇を見下ろそうとしていたと言われています。
本丸から天主へ向かう階段の石垣

この辺りの石の多くの表面が焼けて割れています。
本丸の北東部に位置する本丸東虎口

残念ながら現在この先は立ち入りが出来ませんが、この先に台所と思われる場所があったそうです。
平成の発掘調査では窯跡、土器や陶磁器などが多数出土したそうです。
天主台登り口

この登り口を登ると天主の地下一階部分に入れたようです。
昭和の調査時に2mの堆積土砂の下からこの天主台の登り口、天主の礎石などが発見されたそうです。
天主台と礎石

ここに地下一階、地上六階、外観5層の天主が建っていました。

案内板に寄ると天主台の石垣は元々もっと高く、崩壊した石垣が残っていれば天主台の面積も現在の2.5倍の広さがあったそうです
天主の復元の話も聞くこともありますが、現実的には難しいようですので天主台だけでも復元して貰いたいです。
天主台奥側から登り口側を見た様子
天守台北側の斜面

西側と共に北側の斜面も大きく崩れ落ちています。上からでは石垣も見えず原形が分かりません。
天守台からの眺め

遠くに琵琶湖が見えますが、当時は山の麓まで湖が広がっていました。

天守台を後にし、下山します。
伝織田信忠邸跡の近くの分かれ道で大手道の方面へは戻らず、旧摠見寺の方面へ進み、また石段を登ります。
ここ安土城址には400年以上前の築城時(摠見寺の創建当時)からの建物が2つ残っています。
そのうちの一つが旧摠見寺に建てられた三重塔(重要文化財)。
摠見寺の三重塔

三重塔は元々1454年に別の場所に建立されたものですので560年以上前の建物で、
築城時にこの地に移築されました。

三重塔の周辺には周辺にあった本堂など多数の建物の礎石のみが残されています。
旧摠見寺は22棟の建物がある中世密教特有の伽藍配置だったそうです。
廃城後も摠見寺はこの地に残りましたが、1854年の火災で本堂など殆どの建物を消失し、
現在の伝徳川家康邸跡に移転したそうで、火災による焼失を免れた三重塔はそのまま残っています。
三重塔を後にし急な石段を下ります。

暫く進むと現存するもう一つの建物、二王門が現れます。
二王門

この門も元々は1571年に甲賀郡に建てられた門を築城時に移築された門だそうです。
門の両側にある金剛力士像は1467年の作だそうで、門と像は共に重要文化財に指定されています。
二王門の先も石段が続きます

石段は降りる途中で封鎖され、山道へと誘導されていました。
平成の整備以前は真っ直ぐ降りると百々橋口という出口に出れたそうです。
山道を進むと伝羽柴秀吉邸跡へと戻り、大手道の入り口に戻りました。

今回ざっとご案内をしましたがまだまだ紹介し切れない見所も沢山ありました。
また、整備、調査の行き届いていない所もあり残念な部分もありましたが
逆に色々な想像を掻き立ててくれました。

信長が石垣造りの城を造り始め、進化を経て完成させたのが安土城です。
その後の日本全国での城造りにも大きな影響を与えたお城です。
特に歴史やお城が好きな方には是非足を運んでご覧になって頂ければと思います。

予約センターYM

安土城址アクセス:
[電車]JR琵琶湖線 安土駅から徒歩25分。駅周辺にはレンタサイクル店が数店、コインロッカーなどあります。
[クルマ]名神高速道路 八日市IC、竜王ICから30分。駐車場は無料(無料駐車場の手前に有料駐車場がありますのでご注意を)

過去の古城探訪ブログ:会津若松城

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